Fly me to the Moon

ってタイトル付けて記事書いてしまった(ついに)

珠城りょうさんによって深刻なエラーが発生しました

珠城りょうさんを好きになってしまったので、はてなでブログを書きます。

 

こういった場合、まず筆者の属性が必要です。

ジャニオタが〇〇にハマった、とか、根っからの2次オタが〇〇に行ってみた、みたいに見出しに使われるやつです。

わたしはほんの数か月前までは、テニモン*115年生という自負を持ち、観劇を趣味とする者として生きていたのですが、現在は自分がよくわからないでいます。

それまで、すべてはテニミュがきっかけで演劇を好きになり、小劇場も2.5次元も帝劇日生あたりも何でも観てみたくて、年間70~90回くらい観劇して、うち30回*2くらいはテニミュでした。

ところが今、特に何も観に行っていません。

劇場の座席に着くと、「本日は、ようこそお越し下さいました。宝塚歌劇団月組の、珠城りょうです。」*3という幻聴が聞こえるのです。雪組公演中の東京宝塚劇場でも、TDCホールでも、池袋芸術劇場のシアターイーストでも。至極真面目に言っています。

それがわたしの頭の中にだけ響いているアナウンスだということはわかっているし、珠城りょうさんが出演していないということも当然わかっているんですが、舞台を観ていてもいつまで経っても珠城さんが出てこないことにガッカリしてしまっているのです。もうびっくりするほど上の空です。

さすがにこの状態では、まともに演劇を観ることは不可能です。突然に、趣味と言える趣味を失ってしまいました。

電波オデッセイ vol.1

 

珠城りょうさんを好きになったきっかけ

これが、わからないのです。

初めて宝塚を観に行ったのは2011年に遡ります。大空祐飛さんがトップスターの時代の宙組でした。真っ当にエンターテインメントで、それまでわたしが観てきた演劇の環境とはホスピタリティが段違いで感動しましたが、それで終わってしまいました。それからも何年かに一度くらい、宝塚作品を観ていました。だから、初めて宝塚を観た衝撃で……!というような刷り込み的なものではないのですね。

珠城りょうさんを初めて拝見したのは『All for One~ダルタニアンと太陽王』です。しかしこのとき、わたしの目と心を独り占めしたのは愛希れいかさんでした。宝塚に深く興味を持つことになったきっかけは、間違いなく彼女です。

珠城りょうさんの印象はあまり残っていません。ダルタニアン役の珠城さんは長髪で、それが女性っぽい顔立ちを強調しているようでどちらかというと苦手に思っていました。(今なら、自分に「目の付け所がいいね!」って言います。)

 

 それは突然に?

宝塚のスターさんに心奪われる瞬間は、雷に打たれるようにして訪れるものだと思い込んでいました。いつでも鮮明に思い出せるような、はじまりの「瞬間」があると思っていたのです。そういう意味では、珠城りょうさんは違う、と思っていました。

『カンパニー-努力、情熱、そして仲間たち-/BADDY-悪党(ヤツ)は月からやって来る-』を経ても、わたしは雷に打たれることはありませんでした。この頃、舞台写真は愛希れいかさんのものばかり買っていました。(公演中買ったものの中で、珠城りょうさんが写っているのは2枚だけでした!)

これと言った転機も経緯もなく、しかし振り返ってみると、上述東京公演終盤ごろから次第に様子がおかしくなっています。気がついたら、ファーストフォトブックを買っていました。ぼんやりと珠城りょうさんのことを考える時間が多くなって、急に感極まって泣き出したり、もしかしてわたしは珠城さんと結婚してしていたのでは?*4と思い始めます。(正常です。)

これは完全に余談なんですが、この「わたしは珠城さんと結婚していたのでは?」感は珠城りょうさんの魅力そのものの表出ではないかと考えました。目からビームを出して射殺したり、強引に心を奪っていくタイプではなく、いつの間にか心に住みついていて隣からいつも体温を感じるような、そういう魅力だという気がしています。

 

わからなくて良い、ということがわかった

わたしは「わからない」ものが嫌いです。みんながわかっているのに、わたしだけわからないのはイライラします。その最たるものが、恋愛でした。世に溢れる会話も歌も物語も、人生の必修科目でみんな履修済みでしょ、といった体で語りかけてくるけど、わたしにはわからなかったし、わからないことにずっとコンプレックスがありました。演劇も、恋愛がドスンと横たわっているような作品は積極的に避けて選んでいました。

現実での「わからない」ならまだしも、物語上での「わからない」は致命的です。恋を描くのなら、恋(または恋と勘違いしそうな感情)が起こらざるを得ない条件を整えるか、惹かれていく経緯を丁寧に描くかして、理解させて欲しかったのです。

昨日まで何とも思っていなかった人を特に何事もないまま今日好きになった、みたいな人物像では納得できなかったし、それを恋だという理由にして説明したつもりになっているのも納得できませんでした。

わたしが珠城りょうさんに出会って生じた変化の、これが恋かどうかというのは重要ではありません。

いつ、何がきっかけで、どんなところが好きになったのか何一つ答えられないから、誰かにこの気持ちを説明して理解してもらうのは無理でしょう、そう、少し前のわたしなら思ったはずです。でも、まるで出来損ないで思い付くままに書き殴られた駄作の脚本のように、「わからない」ことがあるということを知っている人が、この世界にはたくさんいるんだと今ならわかります。

 

この愛 人生よ おはよう

唐突で理不尽で、脈絡がなく意味不明でめちゃくちゃで、当事者以外にはそれをひとつのものだと言い表すことができないかたまりを恋だと呼ぶのなら、わたしはすっかり、恋の魅力に参ってしまっています。

2017年に月組で再演された『グランドホテル』は、珠城りょうさんのトップスターとしての大劇場お披露目公演*5でした。初演ではオットーを主役としていたものを、珠城さんの持ち味*6に合わせて、フェリックス・フォン・ガイゲルン男爵を主役とした物語へと変更されています。それは、借金の取り立てに追われた男爵が不承不承盗みに入った部屋で、踊る意味を見失ってしまった年かさのバレエダンサーであるエリザヴェッタ・グルーシンスカヤと出会い、一夜で情熱的に恋に落ちた二人の話が中心にあります。

二人で歌われるLove Can't Happen

誰にわかるだろう(わかるでしょう) なぜ 震えている

その答えは一つ 恋をすればわかるさ(わかるわ)

あなたも

 何をどう考えてもわたしの理性では理解の及ばない恋を、二人はこのように表現します。今のわたしに伝えるためにそう言うのですか?

男爵との一夜を過ごした朝、グルーシンスカヤが歌うのは、Bonjour,Amour

なんにも 彼の事 まだ知らない それでも

心が歌い出すの Bonjour! A l'amour!

 少女のようにはしゃいでいるグルーシンスカヤを見ていると、涙が出てきます。わたしはこの胸の高鳴りを知っている!と思います。

 

あんなに用心して避けてきた恋愛主題の演劇、当然ながら宝塚作品では完全に主流です。これまでとは打って変わって、浴びるようにロマンスばかり観ているわけですが、恋愛のわかることもわからないことも、そこに珠城りょうさんがいるだけで、わたしの中では圧倒的に説得力を持って存在しているのです。

『激情-ホセとカルメン-』のホセにしても、『ロミオとジュリエット』のロミオにしても、衝動に突き動かされるままに恋に身を投じてしまう愚かさだったり幼さだったりというものを、理性的なわたしは理解しがたいと思うけれど、それが珠城りょうさんの存在によって反転して、ホセやロミオの狂おしいまでの恋しい気持ちが流れ込んでくるようです。

わたしは現在、珠城りょうさんを媒介にして夢見る世界へ接続されているのですが、逆説的に言えば、珠城りょうさんなしではどこへも行けなくなっているのではないか、という気がしています。

でもそれでも、そのことを特に不安に感じたりもしていないので、本当に「わからない」なぁと思っています。

 

streaming.yahoo.co.jp

 

 

*1:いにしえのテニミュオタクの自称

*2:イベントやドリライも含めると40回は下らない状況だったのでは

*3:トップスター(主演者)によるご挨拶のアナウンス。「本日は〇〇にようこそお越し下さいました。宝塚歌劇団月組の、珠城りょうです。只今より、〇〇脚本・演出、作品名〇場を、指揮〇〇により開演いたします。」

*4:Twitterで検索すると同様の症例の方が何人かいらっしゃいました

*5:トップスターお披露目公演は『アーサー王伝説

*6:珠城りょうさんは絵に描いたような健康優良児(?)なので、死にかけているオットーはさすがに無理です